待機児童の解消に向けて、政府は今年度、企業が従業員向けに開設する「事業所内保育施設」の大幅拡充策を打ち出しました。「企業主導型保育事業」と銘打ち、今後2年間で保育定員5万人増を目指し、計835億円の予算を投じます。今月末には開設申請があった企業に補助金の支給決定が出される予定。自治体が運営する認可保育所の増設が追いつかない中、政府は企業の「貢献」に期待を寄せます。「子連れ通勤」は待機児童対策の切り札になるのでしょうか。

仕事継続「ありがたい」

 今年5月、平日午前9時ごろ。JR東京駅に着いた大槻絵美さん(35)は、胸に抱いた長女の美玖(みく)ちゃん(1)を乗客の波から守るように電車を降りました。勤務先は、駅前の高層ビルに本社を構えるリクルートライフスタイル。出勤前に、同じビル内にある事業所内保育施設「アンズ」に美玖ちゃんを送り届けます。

 育児休業期限に合わせて申し込んだ自宅のある東京都新宿区の認可保育所に入れず、認可外十数カ所にも問い合わせたが、空きがありませんでした。水戸市の実家に子どもを預けて働くことも覚悟したが、アンズの選考に通り、今年4月に復職しました。

 通勤電車の送迎は楽ではありません。美玖ちゃんがぐずったり、高齢女性から「こんな時間に子連れで出かけなくても」と言われたりしたこともあります。それでも大槻さんは「仕事を続ける上で、ありがたいセーフティーネット」と話します。認可が空くまでの「つなぎ」と考えていたため、6月には近所に新設された認可に移りました。

 アンズは2008年、親会社のリクルートホールディングスが開設しました。運営は、民間の保育事業者に委託し、利用できるのはリクルートグループ企業の社員です。送迎に荷物が増える負担を減らすため、おむつの補充と廃棄なども施設が対応します。定員20人の大半は、待機児童が多い0〜2歳児です。担当者は「利用希望は年々増えている」と話します。

 厚生労働省によると、事業所内保育施設は15年3月現在、全国に4,593カ所あり、約7万4,000人の子どもが利用します。多くはアンズのように運営を民間事業者に委託しています。土日に休めない病院やサービス業などの従業員のニーズに応えてきました。

 ただし、「弱点」もあります。事業所内保育施設を利用している神奈川県の母親(37)は「認可に比べ保育料が高い」と不満を漏らします。都内の保育事業者によると、認可並みに月4万円程度という施設もりますが、同10万円というケースもあります。認可と違って所得による考慮はありません。政府の実施要綱には「企業の裁量で、必要以上に高額にしてはならない」という規定しかなく、認可に預けられた人との「不公平感」はぬぐえません。

 保護者の意向よりも職場の都合が優先される可能性も指摘されます。会社経営の女性(43)は自身も幼い子どもがおり、他社と共同で開設を検討しました。だが、「預けたくなくても、上司に『職場の施設に空きがあるんだから預けて復帰すれば』と言われたら断れないのではないか」と懸念する声があり、開設を見送りました。

 都内在住の女性(31)も最初は「事業所内保育施設は便利で助かる」と思っていましたが、11年3月の東日本大震災で考えが変わったと明かします。あの日、電車は止まり、道路が大渋滞するなか、0歳だった長男を連れてようやく自宅にたどり着きましたが、夫は帰宅できず、心細い一夜を過ごしました。「地域とのつながりがなく、頼れる人がいなかった」と振り返ります。認可に移り、子どもを通じて助け合える地域の知り合いが増えたといいます。

認可並み補助、「質」不安も

 政府は今年度の新設分から、事業所内保育施設の公的補助を認可並みに引き上げる新制度「企業主導型保育事業」を開始しました。17年度には12万人超の子どもが利用できる体制整備を目指します。6月末までに開設を申請したのは約300施設、定員は約6,000人規模と推計されます。

 今年5月、内閣府が新制度に関する初めての説明会の案内をホームページに掲載すると、企業の人事担当者や保育事業者の申し込みが殺到。2日後には定員160人がいっぱいになりました。急きょ定員を300人に増やし、追加開催を決めたが、こちらもすぐに上限に達しました。内閣府の担当者は「予想を上回る関心の高さだ」と驚きます。

 関心を呼んだのは、手厚い補助金が理由です。運営費の補助はこれまでの約10倍に引き上げられ、施設整備費にも認可施設並みの補助が出ます。一方、職員に占める保育士の有資格者の割合は、旧制度の3分の2から半数へ緩和され、旧制度よりも格段に開設しやすくなりました。説明会に参加した神奈川県の大型商業施設の社員は「テナントの従業員から要望が多かった。これだけ補助があれば不安なく開設できる」と歓迎します。

 ただし、効果は未知数です。政府目標の「定員5万人」が、待機児童の多い都市部で整備されるとは限りません。複数の保育事業者は「都内は面積など施設の安全基準を満たす物件が不足している。会社のそばに物件がなく断念した例はいくつもある」と指摘します。

 15年4月に待機児童がいなかった群馬県でも、スーパーマーケット経営会社が「預かってもらえるなら働きたい、という女性はたくさんいる。強力な採用ツールになる」(人事担当者)と開設準備を進めます。全国で保育所を運営する事業者によると、問い合わせのうち半分が地方企業といいます。

 保育士の割合が少ない施設が拡大することで、保育サービスの質への不安も出ています。業界関係者によると、全国的な保育所の開設ラッシュで保育士不足は深刻になっており、ベテラン保育士は比較的待遇のよい認可へ流れる傾向があります。事業所内保育施設は認可外のため、政府が掲げるベテランの待遇改善策の対象外になる見通しです。都内の大手保育施設運営会社の役員は「企業の開設要請に応えるには、保育士をかき集め、ぎりぎりの基準で運営するしかない」と話します。

 一方、今年3月には、ベテラン保育士が手薄な東京都内の事業所内保育施設で、昼寝中の1歳2カ月の男児が死亡する事故が起きました。認可外への行政のチェックは認可ほど厳しくなく、開設時の審査や立ち入り権限に差があります。人手不足の改善のめどが立たない中、政府が施設増を推し進める現状に、保育事業者が内閣府の担当者に訴えました。「保育士を増やすことを先にしなければ、安全性にひずみが生じる。順番が逆ではないか」